今日は、めずらしく小説をご紹介してみます。
『老父よ、帰れ』(久坂部 羊)
前頭側頭型変性症で施設に入っていた父を、医師の講演(若干うさんくさめ)を聞いて‘介護の極意’に目覚めた息子が、自宅に引き取ることを決意して…という話。
もう、ユーモアと笑いの要素があふれていて。思い込みが強くて、こうと決めたらまっしぐらな息子のキャラには、こういうところ、自分にもあるなーなんて冷や汗をかきながら。そんな夫を冷静にたしなめつつほどよい距離感でサポートする妻や弟、ちょっと腹がたつけれど実は…な近所の人や介護職など、周囲の人のキャラクターもそれぞれいい味を出していて、物語としても面白く読めます。
でも読み進める中で、うーーーーん…と深く考えさせるエピソードが盛り込まれていて、診察室で出逢う色々な患者さんやご家族の顔を思い浮かべて思うところあり、でした。現場のことがよくわかっているなー、よく取材されたなーと思っていたら…この本の著者、医師なんですね。
◎期待と希望?
在宅介護を始めるきっかけになった講演で、医師が「認知症介護において、よくなってほしいと期待することがよくない。期待するということは、今のままのあなたではダメだと否定することにつながる。‘感謝と敬意’をもって、ありのままの本人を受け容れることが大切です!」と説いています。
息子がそれに感動して、期待してはいけない、期待してはいけない…と自分にも家族にも言い聞かせている一方で、ポロっと家族の名前を言った父に食い入るように自分の名前を言わせようとしたり、がっちり‘期待’しているんですね。それを家族に指摘されて、苦し紛れに言うのです。
「これは期待じゃない。希望だ!!」
一緒でしょ、という冷たい視線を浴びるのですが。
医療の基本的なスタンスは「認知症症状を克服すべきと捉え、解決に導くこと」です。本人か家族かの違いはあれど、誰かが困って医療機関に受診しないわけですし、行く以上は‘解決’ せめて‘改善’を期待されているわけですから。
一方で介護のスタンスは、どちらかと言うと「認知症を加齢の延長ととらえ、寄り添うこと」という感じがします。
昨年の介護セミナーで寄り合いの村瀬さんが、介護者が「ただ共にある」ということの意味について話をされていました。確かどういう介護者が介護職に向いているのか…という会場の質問に対して、あまり自身が専門職としての成長を急がないこと、と答えていたのを聞いて、はっとしたのです。専門職としてスキルを磨きたいとか、成長したいというのは、社会においては望ましい姿勢と捉えられます。でも介護をする時には、自分が自分が…という主体ではなく、何もせずそこにいる、主役である本人と共にあることだけに耐えられるタイプの人というのが、介護職に向いているのかもしれないと。
昨年一年介護職の方とお話しする機会を頂き、コウモリのように介護と医療の世界をいったりきたりする中で言葉にならない違和感を感じ、何なのだろう?とモヤモヤしていたのですが、そのヒントをもらった気がしました。
私は医者なので、友人にもやはり医者が多いです。医者というのは、成長しよう、スキルアップしようという向上心が旺盛な人が多い。そんな価値観にどっぷりとつかっていると「なんにもしないで共にある」ということに、漠然とした焦りや後ろめたさを感じるのです。自分はこの方に対して職務を果たしていないのではないかと。私は介護職には向いていないのかも…とちょっとがっかりしました。
でももし全ての医療者が、結核をやむを得ない運命として‘受け容れて’いたら、今でも結核は命を奪う致死的な病気だったでしょう。癌もしかり。同じようにアルツハイマーも、闘うことを決めて真相を追求しようとしたからこそ明らかになってきた事実があり、時代が進めば「私たちが若い頃はね、認知症で本人や家族が大変だったんだよ。」と語られる日が来るかもしれません。(それが1粒の薬で成し遂げられることとは思っていませんが)いま認知症が医療で治癒しない疾患だからと言って、この先も未来永劫に治らないと決めつけてはいけません。
それで何が言いたいかと言うと…
期待してはいけない…
とは限らない。
どこまでが改善を期待できる部分(医療の領域)で、どこからが加齢性として受け容れた方がいい部分(介護の領域)か。そのバランスを、個々に探るしかありません。適切に探るために、介護者と医療者の両方と、風通しよく話し合える関係性をもっていた方がいいよね。
…という結論でした。
本人を大切に想いながら介護していたら、よくなることを期待するのが人の感情として当然でもありますしね。