貧困とつながり

こんにちは。

今日は、週末に読んだ小説を。

『神さまを待っている』(畑野智美)

衝撃を受けて、心が揺さぶられました。あーだこーだと言うよりも、絶対に読んでみて!!と強く強くお勧めしたい。大げさに聞こえますが、私の中で世の中の見方が変わりました。

貧困女子。そう呼ばれる若い女性の小説です。

リアリティが、すごい。職場のランチで楽しみにしていた定食屋の鰺フライ定食。自分のテーブルにソースがないけれど言い出せなくて、不完全燃焼感を感じながらぼそぼそフライを食べる…このシーンで、もう私は主人公女性に感情移入。(鰺フライにはソースよね、というところに。私は隣りのテーブルからさっさとソースを借りちゃう方ですがw)

主体性がないところに少しモヤモヤするけれど、派遣じゃなくて正社員になりたい!と向上心もあって、それに向かってコツコツと働くくらい真面目で、貯金が残り少ないのに友達の披露宴にワンピース新調して二次会の受付まで引き受けてしまう律儀な女性。なんだか友達の中にもいそうなキャラクター。

そんな彼女が、家を失い、身の安全や健康を危険にさらされるぎりぎりのところまで追いつめられていく。

なんでそうなっちゃうの?

他の選択肢も、選べたのでは。

最初にそう思ってしまった自分は、不遜なのではないかと、読み進めていくうちに恥ずかしくなりました。

私たちが‘ホームレスにならないための選択肢’として思いつく色々なセーフティネット(友人や家族の存在、法的なサポートなど…)は、誰にでもあたりまえに手にできるものじゃない。それが「あるのが当然」だと思うこと自体が驕りで、それをたとえ善意でも本人に伝えることで相手を傷つけてしまうこともあるのだと。

昨年年末に読んだこの本のことを思い出した。

「貧乏の何がつらいってね、それは周りの友達がみんないなくなっちゃうことなんですよ。どこかに行こう、何かしようといってもお金ががかかるでしょ。それがないために、断らなければいけない。そのうちに、誘われないようにしようとする。それが辛いんですよ。」

お金がないことで「つながり」が失われていくというと、「金の切れ目が縁の切れ目」で相手からメリットがないからと冷酷に縁を切られてしまうことをイメージしてしまうけれど。実際には、本人が引け目を感じたり、同情されたくないという気持ちから、みずから距離をあけてしまうということが多いのだと。これは、自尊心の問題。

今回の小説の中でも、このことは異性の友達には言えるけれど、同性の同級生には言えない…とか。ここまではぎりぎり話せるけれど、ここから先は決定的に惨めになるから言えない…という微妙かつ複雑な本音が語られている。主人公が知り合うサチさんという女性が主人公に「あなたは、‘戻れる人’だから。」と一線をひいて突き放すようなことを言ったり、その場の親切心でサチさんの子供たちに親切にすることを喜ばなかったり。

追いつめられているんだから、どんな手助けも感謝してwelcome!!! …とならないところが、ヒトなんだな、と。

人間ってどんなに追いつめられても、誇りがあって、人に弱いところやみっともないところを見せずに生きていきたいと思うもの。彼女と比べものにならないほどしょぼい穴だけれど、過去に穴に落っこちたことがある自分の体験から、実感できます。当時の私も、こんなことがあって…と親しい友達につらかった経験を話せるようになったのは、自分で「穴から抜け出せた」というめどがたってかでした。本当に弱っているときは、助けを求める気力さえなかったり、自尊心が邪魔をして助けを求められなかったりする。時に足をひっぱりそうな自尊心まで丸ごと含めて人間として、その気持ちに寄り添いながらサポートしていけるのか。難しいですね。

ずっと遠くにあるように思っていた貧困という問題が、決してそうではないことに気づいた週末。気持ちがわかるなんて絶対に言わないけれど、わからなくていいから、何かできることを一つずつ。