『「母親に、死んでほしい」介護殺人・当事者たちの告白』
介護家族による殺人という、重いテーマを扱った本。手帳に読んだ本のタイトルを転記するのだが、このタイトルを書き写すのは気が重かった。
事件一つ一つについて、どんな背景があるのか、丁寧に話を聴いていく。執行猶予となっても加害者となった家族は人目を避けるように生活しており、インタビューが難航したようだが、そこを越えて届けられた当事者の言葉、浮かんでくる景色には、大きな価値があると感じた。
本の中で最初にひっかかった言葉がある。
裁判の判決の中で
《動機は安易かつ身勝手なものと言わざるを得ない。》
私のイメージする‘身勝手な行動’と、判決で使われる‘身勝手な動機’。その間に、大きな開きがある気がする。
認知症の母親を介護して、ぐっすり眠れた夜は、一度もない。
便まみれのオムツを、真冬に水しか出ない洗面台で黙々と手洗いする。
こうして追いつめられた末に至った犯行を、ただ身勝手と断じてよいのか。もしそこで男性が「もう無理だ…」と一人家を出て行ってしまったら、それは身勝手ではなかったのか。
30代の10年間を介護についやし、結婚も出産もあきらめざるを得なかった女性は、「自分の人生に価値を感じたら、介護は続きません。」と書いている。
自分の感情や考えは引っ込めて、何を見ようが、何が起きようが、ただ淡々と対応するだけ。そうすることで介護生活が安定するようになりました。同級生たちと会ってしまうと、介護ロボットから普通の人間に戻りたくなってしまうんじゃないかと怖いんです。
感情を排したような表現が、逆に介護の壮絶さをあらわしている。
でも、それでいいのか。
いいわけがない。
私が、副作用のリスクがあると知りながら、それでも抑制薬・抗精神病薬を使うのは、介護者の暮らしと人生も、犠牲にしてほしくないから。
1年前から通院している認知症の方のご家族が、しみじみと言った。
「1年前の日記を読み返してみたの。昨年は本当に地獄だったなって。
毎日、戦ってた。」
抑制薬を使うことで、爆発するような易怒のレベルが、10から5になった。それだけで、介護家族は「超えてみて初めて気づく、ぎりぎりの境界線」を、越えずに済むかもしれない。一晩ゆっくり休めば、少し前向きな気持ちになれるかもしれない。
抑制薬を飲むのは、どちらかと言うと、介護家族のため。
施設ではなく、自宅での暮らしを続けるのは、本人のため。
認知症の本人と家族、どちらかが100点でどちらが0点という偏りを減らし、どちらも少し譲りあって60-70点。家庭内の総合得点が一番高いところはどこか。落としどころを、いつも探している。