深山さんが、こう言っていた。
よく福祉の教科書なんかに載っている、真ん中に大きい〇で本人がいて、周囲に放射状に線がのびて本人を支える小さな〇がある絵。深山さんはあの絵を見るとなんだか気持ちがザワザワするって。
「本人を全員がとり囲むって、支えるって言いながらいじめの構図じゃないですか(笑)自分だったら、真ん中の大きな〇じゃなくて、周りの人と同じ小さな〇で、支えるポジションにいたい。」
そう言いながら、深山さんは真ん中の「本人」を消して、「用事」と書いた。
「多くの方が自然と関われるように、タブノキではできるだけ多くの「用事」をつくるんです。すると、誰もが、周りの小さな〇として、自然に支える側にまわれる。」
この話を聴いて、ああそうか…と自分の深いところで腹落ちした感覚。
一方的に「誰かにしてもらう」ばかりの立場って、自我がある大人の気持ちとしてはつらい。自分は人に何かをしてもらうばかりで、何もしてあげられない人間だって思わされてしまうから。
うちのもの忘れ外来の患者さんで、デイサービスなどの介護サービス利用を最も頑なに拒否する人がいる。現役時代にケアマネをやっていたり、介護施設を経営していた人。(医者ももれなくそうなるw)そういう人にデイサービスを勧めると、口をそろえてこう言う。
「私はまだ、そこまでは…」
自分はいつも放射状の線の外側の「たすけてあげる側」にいて、断じて「たすけてもらう側」にはなりたくないのだ。深山さんが持っている「たすけて」というカードは、一見最弱にみえてみんなを幸せにする最強カードなんだ。
そう考えるとタブノキは、まだ何にもないところから作りあげていく過程そのものが、すでに大きな「用事」だったのかもしれない。
お二人への信頼がベースにあれど周囲の人(老若男女とわず)は「たすけてあげよう」という気持ちで集まってきて、手や体を動かして、その行為でもって心が癒されたり、新たな絆ができたりという形で、助けられていた部分もあるのかも。そしていまのタブノキでたくさんある「用事」には、高齢者が長いことつちかってきた手作業や技が生かされる場面がきっと沢山あって、みんなが「用事」の周りでそれをたすける小さな〇でいられるんだって。
深山さん、すごいなーーー。そして最初のたすけてを受けて立った奥さんのまどかさんも、本当にすごーーーい。私も明日からは、遠慮なく一見よわそうで実は最強な「たすけて」カードを濫用しよう。
薪ストーブがあったかく燃えていて、なんだか忘れられない夜になった。