1-2年前の外来での出来事です。
90歳台の父親の診察を終えて一度は出て行った娘さんが、ひとり診察室に戻ってきました。
彼女は椅子に座ると、ささやくように言ったのです。
「先生、霊って信じます?」
「……。」
てっきり宗教の勧誘かと思いました。
壺を売りつけられることをこっそり警戒したのはここだけの話(笑)
でも違いました。数年前に亡くなったお母さんの話だったのです。
知人の霊に詳しい方?が、娘さんにこう言ったのだそうです。
「お母さんはね、最期は苦しかったよ。本当に苦しかった。
あなたに、何度ももうやめてと言っていた。」
お母さんは認知症を発症し、当時公立病院に勤務していた私が主治医でした。
80歳台後半で徐々に認知機能低下が進みコミュニケーションをとることが難しくなり、歩行障害が進んで歩くこともできなくなりました。最後は誤嚥性肺炎を繰り返し、度々入院するようになります。そんな母を介護する娘さんは思い立ったら一直線、エネルギーに満ち溢れたタイプ。少しでも母親を改善させようと一生懸命になり…。
娘さんは当初「胃ろうも心肺蘇生もせず、穏やかに見守りたい」と言っていましたがが、いつの間にか胃ろうをする方向に変わっていきました。胃ろうについては一概にいいとも悪いとも言えないのですが、わき目も振らず一直線!といった姉妹の態度に主治医として少し不安を感じていました。胃ろうを入れる前日に微熱が出た時には、「少しでも早く栄養を入れなきゃ死んじゃう!熱があってもバイタルサイン(血圧や脈拍)が乱れていても、一日も早く胃ろうを造って下さい!」と私に訴えてきたのです。胃ろうさえ作れれば状態が悪化してもいい…それでは本末転倒です。
胃ろうを造ることは本当に本人の幸せにつながるの?と問題提起をした私に、姉妹は不信感を覚えたようです。お姉さんが「白土先生は、あきらめないなんて言っていながら、お母さんのことを見捨てるんだね。」ともらしていたと聞いた時には、自分の気持ちがきちんと伝わっていないことに無力感を感じ、気持ちが滅入ったのは事実です。最終的には、娘さんの強い希望で胃ろうを造設し、数ヶ月後にお母さんは旅立ちました。
ボタンのかけ違いから、一時は私と娘さんのとの間にやや緊張した空気となったことは事実です。その後、90歳台になるご主人も認知症を発症し外来通院が必要となったこともあって、私とそのご家族との物語は、ふたたび続いていきました。
いま振り返れば、娘さんたちの必死さを想像すれば、感情的にぶつけられた言葉に対してもう少し穏やかな気持ちで受け止められたのかな…私もまだまだ未熟だったな…とも思います。しかし互いに本気で向き合ったからこそ、大変な時期を共に乗り越えた‘同志’のような感情が芽生えており、娘さんとの関係は良好になっています。
娘さんの冒頭の言葉ですが、ノンスピリチュアルな私にとっては、実際にお母さんの霊がなんと言ったかよりも、娘さんがそのメッセージをどう受け止めたのかに関心がありました。猪突猛進な娘さんのこと、私たちがあんなにも頑張ったのに!と憤慨するかと思いきや、
「何としても生きていてほしいという私たち姉妹の気持ちを満たすために、母には本当に苦しい思いをさせてしまったんだな…と、申し訳なく思っているんです。エゴだったのかなって。」
としんみりとおっしゃって、正直驚きました。
「途中で母が何回か私に、『もうやめて!』と言っていたんです。あれが母の本音だったのかなって。」
「………。」
複雑な気持ちで、返す言葉が浮かびませんでした。
「でも先生、その方がね、こんな風にも言ったの。でもお母さんは、そこ(娘さんの肩付近を指さして)にいるよって。あの時は大変だったけれど、でも今はもう許してくれているから大丈夫だって。」
そして娘さんは、90歳で認知症が進行しつつあるお父さんに対しても、万が一同じ状況になったらどうしてほしいか、お父さん本人の希望を聞いたのだそうです。お父さんは、そんな時には何もしないで穏やかに逝かせてほしいと言うから、今度こそ穏やかに見守ろうと思う、と話してくれました。お父さんはしばらく当院に通院を続けていましたが、遠方の方でもあり、最後は近くで訪問をしてくださる先生にご紹介しました。
つい先日、そのお父さんの訃報を受け取りました。お父さんの希望どおり、胃ろうも心肺蘇生もせず、おだやかに旅立たれたとのことです。お父さんを看取ってくださった医師が娘さんのSOSをうけてコウノメソッドを勉強して下さり、今も時々電話で認知症の質問をして下さります。こんな風にいろいろな形で物語がつづいていくこと、ご縁だな…と思います。
親の老いを受け止めるって、言葉で言うほど簡単なことではないと日々実感しています。ただ、積極的治療を勧めない=見放されると思われないような十分に配慮することが必要だと、Nさんから学びました。
Nさん、学びの場を与えて下さり、本当にありがとうございます。ご両親のご冥福を心からお祈り申し上げます。